魔術師の塔を取り囲む名も無き森の一角には小さな川が流れていて、その場所はつぐな=ツインルークのよく知る狭い世界の中では、月見をするのに2番目にお気に入りの場所であった。
だからその夜、つぐなはその場所で一人、水辺に腰を下ろして青白く光る真円に近い月を見上げていた。
夜もすっかり深まった頃。普段なら既に床についている筈の彼女が、今夜に限ってわざわざ居所である塔(最上階の窓が1番目であるのに)を抜け出してこうして月を見上げているかといえば。
理由は簡単。今夜に限って、彼女は眠れなかったのである。
カサリとわずかに草の揺れる音がして、つぐなが振り向いたのとほぼ同時に彼はつぐなに声をかける。
「やっぱりココにいたか」
「今宵」
名を呼ばれた黒猫はそのままずんずんとつぐなに近寄ると、少女の傍らにすとっと腰を下ろした。
「どーした。お子様はもう寝る時間だぞ」
「うん……そうなんだけどね」
自分を見上げる今宵に向かって、つぐなは苦笑を浮かべてみせる。
今宵はほう、とつぐなに気付かれないよう小さく呟いた。普段なら「お子様」というフレーズに過敏に反応しそうなものなのに。これはどうも根が深そうだ。
ちなんで憎まれ口を叩いたのは別に彼女を試そうとしたなどの理由からではなく、単にいつものことである。
「なんだか眠れなくて。部屋の中だと落ち着かなかったから、ここまで」
「月を見に、ってか」
うんと頷いて、つぐなはまた空に視線を戻す。今宵も一緒に、二人を穏やかに照らす月を見上げることにした。
「緊張してるのか。明日のことで」
「そうかも」
二人とも首を上に向けたまま、言葉だけを交わす。
明日のこと。二人が競技者として招かれた運動会のこと。
「興奮してるっていうのもあると思うけど……多分、寝られない一番の理由はそれかな」
「まあ無理もねェか。お世辞にも運動が得意とは言えねーからな」
「あう」
「それで、手前ェのことだから、佐久間の足を引っ張ったらどうしよーだとか、赤組全体の迷惑にならねェか不安だとか、くっだらねーことで悶々としてんだろ」
「下らなくは無いと思うんだけど……迷惑かけられないのは事実だし」
「莫迦。誰だって手前ェの力以上のことなんて出来やしねェんだ。だったら余計なことを考えるな、余計な力が入るぞ。
手前ェに出来るだけのことをやる。それだけ考えてろ」
「……そう、だね。有り難う、今宵」
「どーせ迷惑かけるのは間違いねェんだからな」
「あう」
なんで一言多いかなぁと恨めしげに今宵を見ると、彼は素知らぬ顔で三白眼をあらぬ方向に向けていた。
でも、と一言胸の内で呟いて、つぐなはつま先で水面を蹴る。月光を浴びた小さな飛沫がキラキラと輝いて、すぐに消えていく。
確かに今宵の言う通りなのだ。今の自分には今の自分が持っている力だけしか出すことなんて出来ないんだ。
だったら、思い悩んだところで仕方が無いのだろう。
とにかく精一杯のことをやれば良いんだ。その上でやっぱり迷惑をかけてしまったなら。
全力で謝ればいいかな。
「ありがとう今宵。少し気が楽になった」
「ならさっさと寝とけ。転送円使えば行くのに時間はかからねェが、そもそも寝坊しちまったらどーにもならんぞ」
「うん」
つぐなは腰を上げようとして、でもその前にもう少しだけ、この場所から見上げる月を堪能することにした。
青白い光が、もう少しだけ自分の心を落ち着けてくれるまで。